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「遠い山なみの光」

 ノーベル文学賞受賞者カズオ・イシグロの「遠い山なみの光」(小野寺 健訳)を読む機会を得ました。早川書房版です。1984年に筑摩書房から、「女たちの遠い夏」という日本語題でも出版されています。

 作者は幼い頃、家族とともに渡英して、ずっと英国暮らしですから、本格的な日本語表現については、無知に等しい状況のようです。原作は、英語ですから、日本語特有の敬語表現については、乏しいでしょうから、作中のそうした表言については、訳者の手腕といったところでしょうか。それはともかく、筑摩書房版の題名からも想像できるように、まさに戦後間もない時代の「女」の生き方を描いた物語です。

ヒロインで語り手でもある「悦子」の現在は、英国住まい。前の夫との間に生まれた娘の「景子」、そして再婚相手の英国人との間に生まれた娘「ニキ」を持つ母親。物語中では「景子」の出生についての詳しい事は語られていませんが、原爆によって家族を失い、夫の親(緒方さん)に親切にしてもらい、その息子と結婚し、「景子」を授かったことは、回想の中から十分に理解出来ます。しかし、英国に渡った後、「景子」はその生活に溶け込めず自殺をしてしまう。娘の自殺に直面した「悦子」は回想する。

 作品は、この回想が大部分を占めます。回想中の「悦子」と「佐知子」、この二人は、表面的には明らかな相違点を持つ女性として描かれています。

「佐知子」は、あまりもあてになりそうも無いアメリカ人との結婚を望み、娘「万里子」を連れてアメリカに渡ろうとします。一方の「悦子」は、前夫「二郎」との間に生まれた「景子」を連れてイギリスに渡ることになります。

また、「佐知子」は、伯父のところに同居していたことがあり、「悦子」は、後の義父となる家に身を寄せていたことなど、二人の境遇の共通点にも気付きます。「佐知子」には、不気味な幻想に怯えて母親の生き方を受け入れようとしない「万里子」という娘の存在があります。「悦子」が「佐知子」との経緯を数多く語るのは、自分が後に「佐知子」と同様な境遇を過ごしたことに関係付けるためだとは思いますが、実は、「佐知子」なる女性は、実像ではなく、「悦子」自身が作り上げた虚像のようです。

「佐知子」が嫌がる「万里子」を無理やりアメリカに連れて行こうとする描写からは、「悦子」もまた「景子」を無理やりイギリスに連れて行ったことがオーバーラップされますし、「万里子」と「景子」もまた重なり合います。

回想の中で、「悦子」が「万里子」を探しに行った時に偶然に草むらで足にまとわりついた縄は、「景子」が自殺に使った縄を連想させます。こうした「悦子」の回想は、「佐知子」の生き方を借りて自分自身の生き方を物語ったのでしょう。「佐知子」とその娘「万里子」のその後が語られていないのもそうした理由なのかもしれません。

 戦争によって全てを失い、また、何らかの事情で再婚を余儀なくされた母娘が生きていくために外国に渡ることを決意した女性の生き様を描く物語です。

爽快な気分を味わえる物語ではありませんが、その風土が持つ独特な雰囲気が感じることができる作品です。ぜひ、一読を!