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叱らない、叱れない

 スーパーなどで買い物をしたりしている時に目にすることなのですが、かん高い声をあげながらスーパー内を走り回ったり、商品を勝手にいじったりしている子どもを目にすることがあります。

時には、近くに親がいても、子どものそうした状況には無関心のように見えます。

状況はわかっているが、無関心を装っているのか、その親の心の中まで覗くことは難しいことです。これもまた、時代の変化がもたらした結果なのでしょうか。

 家庭内での出来事であれば、その対応は、親の判断に任せるしかありませんが、公共の場での行為や行動に対しても、その対応の主体はその親にあるべきだと思いますがいかがでしょうか。

「まだ小さい子供だから言ってもわからない」とか「人前で叱ったりすると親の虐待のように思われてしまうから」などと言い訳をすることが多いようですが、たとえ幼稚園児であっても、そうした行動はしてはいけないことだということをきちんと説明すれば、容易に理解することでしょう。もちろん全てを理性的に理解できる子どもたちとは限りませんから、時には感情を出した叱り方も必要でしょう。「叱る」ことが「虐待」であると考える親たちやそうした行動を取らない親こそが問題であり、我が子に対する教育を自ら放棄するに等しいように思います。

 考えてみれば、そうした親たちが育った青少年期の環境は、学校教育の現場が大きく変化した時代です。時代の変化が、無関心な親たちを生みだした要因なのかもしれません。

言葉における暴力はもちろん、体罰などはもってのほかという、時代が大きく変化した時代が、今の親たちの育った時代です。当然、外部からの圧力が増した結果、教員たちは萎縮して、どんな悪ガキであっても、言葉だけの指導が当然となってしまったそんな時代です。悪ガキを強い言葉で叱責し、職員室に正座させる、そんなことが、全否定される時代になってしまったことに対しては、いささかの疑問を感じざるを得ません。

 多くの子どもたちは、理性的ですから、きちんと理屈を述べることによって、自分の行動の過ちに気づくはずです。しかし、一部の聞く耳を持たない子どもたちや親たちに対しての指導は、非常に大変になった時代といえます。

 話は戻りますが、人格形成に大切な幼児期、親の無関心や規範に対する意識のなさは、必ずその子の将来に大きな影響をもたらすことでしょう。勇気を持って「叱る」ことへの挑戦をしてほしいものです。また、教育現場においても、甘い言葉ばかりではなく、「叱る」ことの重要さを再認識してほしいものです。それが100パーセントうまくいかなくても、指導を続けることは指導者として義務であり、当然のことであるように思います。