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元旦

 「今年もよろしく」などと言い合いながら、新年がまた始まる。

 言葉は、便利で、万能のように思える。しかし、にこやかな顔で挨拶を交わしても、お互いの心の内が少しも見えてこないのは、少しもどかしい。

まあ、そんな事は、どうでもいい訳で、お互いの心の内まで見えてしまったら、友だちづき合いもままならなくなってしまうに違いない。

 さて、今年はどうしようかなどと考えを巡らしているうちに、灼熱の太陽が輝く季節になってしまうのも過去の常識。

しかし、時の流れよりも素早く走ることなんて、とんでもなく難しいことは至極当然なことは承知しているけれど、気持ちだけでもそうしないと、時の流れの後ろ姿を見送るだけになってしまうのもひたすら悲しい。

「時の流れに身をまかせ」というような生き方も、それはそれで否定は出来ないけれど、ちょっと他人まかせ的で、主体性のない生き方に見られそうで、あまり気乗りもしない。

「時の流れ」の概念は、過去・現在・未来という移り変わりを川の流れに例えたものだろうが、カチカチと「時」を刻む時計で言えば、カチと響いてしまえば、それは過去であり、カチとなっている瞬間が現在、カチと鳴る寸前が未来なのだろうが、これまたなんとも曖昧なこと。そして、「現在」という瞬間のはかなさ。

そんな瞬間的な「現在」を生きる我々人間が「過去」や「未来」を語ることについては、浮動的と言ってもいいかもしれない。

 「時よ止まれ、お前は美しい」は、ゲーテの長編戯曲「ファウスト」の名言ですが、その解釈はなかなか難しい。絶えず無情なものとして過ぎ去っていくはずの「瞬間」あるいは「時」という存在へ向けて、「とどまれ」「時よ止まれ」という一見すると、ただの不可能な願いのようにも思える言葉。

まあ、そんなことに深入りすると、眠気が増すだけ。

 暦の上ではスタート地点の今日というこの日も、振り返れば一炊の夢に終わることは確かなのだが、敢えて、眠気に逆らって、一年の計を巡らすことにしよう。

 平成もあとわずか、昭和に生まれ、安定の平成を過ごし、迎える新たな時代の我が人生は如何。