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誕生日

 またまた巡ってきた誕生日。他人は、当然の如く「おめでとう」という常套句を繰り返します。もちろん、何十年も以前のことであれば、その言葉をありがたく頂戴するのが世の常識というものなのでしょうが、この歳になると、自身には「おめでたい」という感覚は失われてしまったようです。

 それはともかく、前回のブログで言い残したこと。小椋佳や井上陽水についてですが、彼らに対する思いを述べてみることにしましょう。

詞も曲も創り、また、自身が歌うという、大変器用な歌手ですが、その中の『少しは私に愛をください』『白い一日』についてです。

 私たちの年齢層にとっては、あまりにも有名な曲ですから、そのメロディーや歌詞は自然と思い浮かべることができるのですが、そうではない今の子どもたちにも、決して「懐かしのメロディー」としてではなく、ぜひ普通に歌い続けてほしいものです。

どちらの曲も、寒さに震え、物思いに耽る今の季節に似合っている曲ではないでしょうか。

 小椋佳は、東大法学部を出て、日本勧業銀行に入行、エリートコースを歩んでいましたが、この曲が発表された1971年は、日本勧業銀行は第一銀行と合併して、第一勧業銀行(現在はみずほ銀行)となった年なのです。

合併はしたものの、内部での勢力争いはかなり激しかったようで、その結果として、どちらかが冷遇されたようです。その冷遇され、辛い立場のサラリーマンの悲哀と皮肉を込めて作った曲と言われています。

 少しは 私に愛をください

 全てを あなたに捧げた私だもの

 一度も咲かずに 散ってゆきそうな

 バラが 鏡に映っているわ

 少しは 私に愛をください

表面的には、「一生懸命愛しても冷たくするあなたに、ほんの少しでも優しくしてほしい。愛を示してほしい」と、けなげに願う女性の思いを唄う恋歌ですが、前述の小椋佳自身の略歴を重ね合わせてみると、作者自身が合併に対する不満のメッセージを強く込め、創作した歌であることは確かなようです。

 

 真っ白な 陶磁器を

 眺めては 飽きもせず

 かと言って 触れもせず

 そんなふうに 君のまわりで

 僕の一日が 過ぎてゆく

 

 目の前の 紙くずは

 古くさい 手紙だし

 自分でも おかしいし

 破り捨てて 寝ころがれば

 僕の一日が 過ぎてゆく

 

 ある日 踏切の向こうに君がいて

 通り過ぎる 汽車を待つ

 遮断機が上がり 振りむいた君は

 もう大人の顔を してるだろう

 

 この腕をさしのべて

 その肩を 抱きしめて

 ありふれた 幸せに

 持ちこめれば いいのだけれど

 今日も一日が 過ぎてゆく

 

 これは『白い一日』(作詩 小椋佳 作曲 井上陽水)の歌詞ですが、その解釈は、人それぞれでしょう。

 「片思いの人に思いを寄せながら、告白できない自分。昔書いて古くなった(あるいは、古臭い言葉で綴った)恋文を破り捨てたり、白い陶磁器(もしかしたら思い出の品かも)にその人を重ねてみたり、街を歩いていて、偶然に踏切の遮断機(二人を隔てる何らかの障害を表している?)の向こうに、その人を見かけては胸をときめかす自分。

しかし、汽車(時の流れ?)は通り過ぎ、遮断機が上がり、その人のもとに近づこうとした時、振り向いたその人の顔は以前とは違う大人の顔(自立した?)の君だった。」

 当時は、こんな解釈をしながら聞いていたわけでもないのですが、今思えば、そんな時代こそが、自分たちの「青春時代」だったのだと、誕生日を迎えた今、改めてこれらの曲を聞きながら、過ぎ去った人生を振り返る自分がいることをしみじみと感じる日々・・。