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焼きついた記憶

 年が明けたと思ったら、早くも一月も半ばを過ぎてしまいました。時の流れの速さを感じるのは誰しも同様かもしれませんが、とりわけ年齢を重ねた者ほど、その思いが強いようです。

 昔の自分と現在の自分を重ね合わせてみると、もちろん重なる部分もあるのですが、多くの部分は変化してしまって、重ね合わせることも難しくなっています。

こうした変化は、一ケ月や一年ぐらいでは感じ取ることはできませんが、その尺度を何十年という単位でみると、はっきりと感じ取ることができそうです。特に、人間の外見(体形、頭髪や顔の皺など)の変化については、明確でしょう。

しかし、内面的な変化については、なかなか感じ取れないものです。

 考え方や価値観などの変化については、環境などがその変化に大きく影響しているようです。自分が大学生だった頃は、大学紛争(1960〜1970年代)が激しかった時代でしたから、若者たちもその影響を受け、革新的な考えを持つ者が多くいましたが、社会が安定し、経済的にも豊かになるとともに、徐々に若者たちの考え方が保守的に変わっていったのは、取り巻く環境の変化がその要因となっているのではないでしょうか。また、柔軟な人間の脳の成せるわざと言えるかもしれません。

しかし、不思議なことに脳の一部には、焼きついたまま変化しない部分もあるようです。

幼かった頃、父親が口ずさむメロディを聞くたびに時代のギャップを感じたものでしたが、自分がそうした年代になった時に感じたものは、おそらくあの時の父親の感情に似たものでした。

「変化する記憶」と「焼きついた記憶」とでも表現したらいいのでしょうか。コンピュータの記憶媒体に例えれば、「RAM」と「ROM」の違いでしょうか。

 話は変わりますが、青春時代の記憶に残る歌手に「井上陽水」と「小椋佳」の存在があります。彼らと自分は、それほど年齢的な隔たりがありませんから、彼らは、自分にとって「焼きついた記憶」の存在の代表といってもいいのかもしれません。(彼らについての「焼きついた記憶」については後に述べることにします。)

 さて、青春を謳歌する若者たちにも、やがては「焼きついた記憶」を開く日々が訪れることは確かです。

 「人は時とともに成長する」という言葉もありますが、「焼きついた記憶」が開かれる時が人間の成長の終着点なのでしょうか。