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2021年4月

 コロナ感染の恐怖に振り回された2020年度でした。完全な対応方法もない中、中途半端な対応に追われたのは、自分だけではないでしょう。ワクチンや治療薬もない中、原始的と言ってもいいマスクや個人の意識だけに頼るという対応については、無力さを感じるだけでした。

 ようやくワクチンの接種も始まりましたが、この一年間は、国の後手後手の政策が目立つばかりで、国民にとっては大変な一年になってしまいました。

また、科学先進国の先頭を走っているかのように思えた日本という国の頼りない現実があからさまになったと言ってもよいでしょう。

ワクチンの開発が、外国頼みという現実は、今までの国の方針がそうした状況にしたのでしょうが、企業自体もあまり儲からない事よりは、儲けに直結する方向に走ってきた結果であるとも言えるでしょう。

 ワクチン開発よりもマスク配布や給付金に莫大な経費を要したりなどの施策は、「木を見て森を見ず」的な施策に思えてなりません。

コロナ問題が解決後にもそうした点を改善するという方向性は見えてきません。

結局は、「元の木阿弥」で終わってしまうのではないでしょうか。

 政策の舵取り役の人物たちの無責任な発言も相次ぎました。マスコミも言葉尻だけをを捉えて批判するということも決してないとは言えませんでしたが、やはり立場をふまえた発言を望みたいものです。

物事をはっきりと言わないのは、日本人の特徴なのでしょうか。確かにズバズバ物を言うことに対しては、決して肯定的には捉えられてはいなかったと思います。

芭蕉の句にあるように「物言えば唇寒し秋の風」的な情感がこれまでの平均的な日本人の心を占めていた結果なのかもしれませんが、時代の変化にそぐわないように思われてなりません。

「沈黙は金」という西洋の格言もありますが、これは、単に「ただ黙っていることがよい」という意味ではありません。

日本では、思っていることをあえて口に出さなかったり、空気を読んだりすることを良しとする風潮が強いため誤解されがちですが、「沈黙は時には雄弁にも勝る」ということであり、「状況によっては黙っている方が良い」という意味ですから、日本的な「沈黙こそ美徳」ということとは少し異なりそうです。

 話は変わりますが、ニュースに事欠かない毎日です。福島の原発の処理水の放出についての方向が示されましたが、あまりにも弱い者いじめのように思われてなりません。

当然、その放出場所は、結果的には福島でということになるでしょう。

福島の漁業関係者の危惧は、ある意味、日本人全体の問題であるのですが、問題の共有についての意識はあっても、現実にお前の所でと言われたら、二の足を踏むことは目に見えています。

原子力発電所からは、常に同質の処理水は放出されているとか、科学的にも人体に問題がないレベルと言われても、はい分かりましたとは言えないのが現実ではないでしょうか。

福島の関係者たちが、事故以来この10年間悩まされてきたこと、それは処理水放出はもちろんですが、風評による被害であったでしょう。それに追い討ちをかけるような状況は、自分が福島県人という立場であったとしたならば、同等の意識を持つことは間違いありません。

国には、単に補償や福島県の問題ということで片付けることなく、日本全体の問題という立場で解決の方向性を見出して欲しいものです。

 つい先日、兵庫県の知事が、大阪は食事時のマスクの着用を呼びかけているから、こちらでは「うちわ会食」と銘打って、「まん延防止等重点措置」の対象となった神戸市などに32万本を配るとしたことなどは、洒落にもならない陳腐なニュースの筆頭といってもいいでしょう。

「処理水は兵庫県で引き受けますよ」とでもいったら、世間的には拍手喝采でしょうが、次の選挙を考えれば、やはり「うちわ」の方が無難なのでしょう。