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国会中継

 今日は国会中継を見ていました。まあ、いつもの事なのですが、一言で言えば、茶番劇を見ているような感じです。もちろん、演ずる方々は、お偉い議員さんたちですから、茶番劇などと言ったら、当事者たちは憤慨するでしょうし、国によっては、それこそ罪に問われることもあるでしょう。

しかし、今の日本においては、法に背くようなものでなければ、「言論の自由」という名の下に、それこそ自由にものを言えるのです。

しかし、自由と束縛は紙一重です。ですから、無理に自由を貫こうとすると、窮屈な状況につながる危険性もあることを理解しなければなりません。

 ただ、何事においても、きっちりと白黒を分けることは難しいですから、それに対応するような規則を作ったとしても、完全とはいかないでしょう。自由を謳歌するためには、我々個人の自覚と抑制が必要である事をも認識する必要性があります。

 さて、話は戻りますが、国会中継の全てを見ていたわけではありませんから、あまり大きなことは言えませんが、常々思うことは、議員さんたち、とりわけ応答する議員さんたちについてです。

応答議員さんの後ろには各省の担当者が控えていて、質問者に対する回答を用意し、アドバイスをしている様子についてです。応答議員の中には、渡されたメモを棒読みして終わり、といった状況を当たり前のように繰り返す者もいます。

突然の突拍子もない質問であれば、当意即妙に答えることも難しいかもしれませんが、国会の質疑については質問者側から質問内容の事前通告がなされているわけで、それに対する周到な準備をしているのが当然だと思うのですが、多くは当人が回答するというよりも、役人が回答するという場面が多過ぎるように思います。詳細なデータなどについては、全てを把握しておくことは難しいかもしれませんが、本質的なことについては、自らの言葉ではっきりと言うことが当然なはずです。そうしたことが、今の国会という場においては、完全に失なわれてしまっているようです。

  彼らは、決して無知な集団ではありません。多くは高偏差値人間です。しかし、あたふたとして、あたかも、牙を剥く犬を前にして、恐れおののき、物陰に隠れるように、回答を役人たちに頼る姿は、あまりにも不様にしか見えません。

どう見ても、自分の頭で考え、自分の言葉で答えているようには見えません。また、曖昧に言葉を濁す姿なども、これまた見る者の感情を逆撫でするようにしか思われません。

こうした状況については、少しうがった見方をすれば、まともな答えをすれば自分たちの立場を危うくしてしまうということへの危惧があるからなのかもしれません。

「本音を言うことは簡単、だけど言えない」そうしたジレンマの表れなのかもしれません。

 何かことが起これば、「説明責任を果たす」などという言葉も、彼らの常套句です。言葉の意味を知らないはずはありません。しかし、それらが実行される様子はいっこうにありません。

もちろん、それを許してしまう私たちにも問題があることは確かです。

議会制民主主義にあっては、私たちは直接に政治に参加することはできません。私たちは、選挙によって代表者を選び、選ばれた彼らが議会において、私たちの意思を代行するわけですから、彼らの問題行動?については、間接的には私たちの責任でもあるのです。

 今のアメリカは、特異な大統領の行動に振り回されています。しかし、今の日本と異なって、アメリカの良い点は、二大政党が拮抗し、一党独裁的な政治形態ではないことです、

それに対して、日本の現実は、政党の数は多いものの、現実には一党独裁に近い状態と言えます。まさしく、数のアンバランスがもたらした弊害なのです。

 歴史的にも、独裁者の存在は国の存亡につながりました。第二次大戦に関係したドイツやイタリア、そして日本などにも、そうした独裁者の存在がありました。

「歴史は繰り返す」は、ドイツの哲学者カール・マルクスの言葉として有名ですが、それよりも古く古代ローマの歴史家がいったと言う説もあります。言うまでもなく、平穏に見える今の日本社会にも、そうした独裁者が、突然に登場しないとは言い切れません。

独裁者を生み出すのもまた、私たち自身であることをも深く自覚しなければならないでしょう。