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言葉の難しさ

 最近は世界を恐怖に陥れているウイルスに関することばかりを述べていましたから、今回は話題を転じてみることにします。現状は他人と会話をすることもままならなくなっていますから、自分自身の思いや過去の経験を自戒をこめて述べたいと思います。独り言と思って聞き流していただければ幸いです。

 その① 身体の大きさについて

 最近の子どもたちは、身体が軒並み大きくなっています。その理由は、自分たちの時代とは比較出来ないほどの高栄養価の食べ物を食べているのですから当然と言えば当然なのです。とにかく、欧米人に劣らないようになってきているのも確かです。この子の親たちも自分たちの世代とくらべるとはるかに大きいです。子どもは親より大きくなるのが常識ですから、近い将来には欧米人と全く変わらなくなりそうです。

 その②  運動能力の低下について

 しかし、身体の大きさに対して、現在の子どもたちの運動能力や体力については、ものすごく劣ってきたように思えてなりません。もちろん、すべての者がそうであるというわけではありません。並外れた能力を持つ者もいることは、否定しませんし、並外れて能力の劣る者もいますから、あくまで、平均値で考えてというのが前提です。こうした状況については、多くの研究者たちも述べていることです。

 その③ 運動能力低下の原因について

 その理由については、幼児期の遊びから学ぶことができなくなった結果だとか、学問偏重の結果だとか言われますが、どちらも的はずれではないでしょう。 

加えて、少子化の時代ですから、子を預かる保育園や幼稚園にとって、子どもたちは大切な宝物です。万が一にでも怪我などさせようなものなら、裁判にもなりかねませんから、大切に大切に見まもりをしなければなりません。

 いたずら坊主の子がいても、体罰を加えるようなことはできません。いたずら坊主というのは、ある意味、積極性があって運動能力も発達した子が多いものです。しかし、結果としては、強い監視や規制の対象となって、その子の持つすぐれた一面が疎害されてしまうということもあるわけです。

単純に大人の論理だけで、すぐに規制を強めてしまうということにも問題があります。いたずら坊主の行為については、責められる点も多いでしょうが、その積極性やリーダーシップという点は優れた能力かもしれません。

 自分の親父たちの世代は、理屈よりも、ダメなものはダメの時代でした。ダメなことをすれば理屈よりも鉄拳が飛んでくる時代でした。それが当たり前で、社会的な通念だったのです。

だからこそ、多少の危険は承知の上で、子どもたちの遊びなどについては、厳しい規制を加えるような事は、あまりありませんでした。

 何ごとをするにも危険はつきものです。子どもの遊びに対して、論理的に子どもに教え諭すことは間違いではありませんが、身をもって体験させることも大切なのです。いたずら坊主が隣の子の頰をつねったら、「そんなことしたら、痛いからしてはいけません」と言うよりも、いたずら坊主の頰をつねったほうがずっと教育的だと思うのですが、そうした教育が崩壊してしまったことについては、化石同様な人間からすれば、嘆かわしい限りなのです。

 鉄棒がうまくできない子に悩む親がいたとします。その親はおそらく、我が子が木登りをすることについては、怪我の可能性については考えたとしても、そうした行為の有効性は見い出すことなく「危険だから」という理由でやめさせていたに違いありません。

木登りを上手にこなす子は、何ごとも器用にこなすという広い視野が持っていたならば、我が子の鉄棒の不得意さに悩むことはなかったかもしれません。

 「こんなことは、役に立たない」とか、「こんなことは危険」という「君子危うきに近寄らず」的な風潮が、運動能力の低い子どもたちを多く生み出した原因なのかもしれません。

 その④ 運動をする理由について

 スポーツを続ける上で、運動能力に長けていることは必要条件です。しかし、運動の原点には、体づくりがあるわけですから、多少の運動能力の低さなどを気にかける必要はないでしょう。

相撲の世界を目指すならば、丸々と太って身体が大きいことは必要ですが、小学生なのにそのような状態にある子は、改善の必要性があるわけです。そこに、運動の必要性もあるわけです。

しかし、そうした子どもたちや親たちにかぎって「運動は苦手だからやらない」ということが多いのではないでしょうか。そうではなく、「運動は苦手だからやる」という立場に立ってほしいものです。

 その⑤  スポーツと運動について

 本来は「運動」も「スポーツ」も同義ですが、ここではちょっと違う考え方をしてみます。

単に体を動かし、健康的な生活を目指すものを「運動」とすれば、ある種目を重点的に強化し、より高い地位を目指そうとするものを「スポーツ」とします。

 現在、「スポーツ」を始める年齢は、ますます低年齢化しています。良い面としては、オリンピックを目指せるような高いテクニックを有した「若いスポーツエリート」が数多く輩出していることです。

昔は、専門的なスポーツを始める年齢は、中学入学後が平均的でした。人気の野球でも本格的な硬式球を使うようになるのは高校が普通でした。

 経済的に豊かになるとともに、親たちの子どもに対する要求の度合いが強まってきました。学習塾はもちろんですが、各種スポーツクラブに加入するという流れです。しかし、右にならえというような単純な動機からではなく、目的をしっかりと把握した上での参加であってほしいものです。

 身体を鍛えることも頭を鍛えることも必要なことですから、何ら異論はありませんが、時には割り切って「費用対効果」も考える必要がありそうです。そのためにも、しっかりとした目的、目標を持った上での判断が必要に思います。そうすることが、時間や金銭をむざむざドブに捨てるような失敗をしなくてもすむでしょう。

 失敗とは、活動を途中でやめざるを得ないような状況に陥った時のことなのですが、その判断はなかなか難しいものです。「結果が出ないから意味はない。」と考えるのが、その多くの例です。

長い時間をかけた塾通いやクラブ活動で、すべての者が良い結果を残せるとは限りません。一枚の賞状も手にすることもできない子もいるはずです。

 親は「意味はない」という判断のもとに、その活動の「切り捨て」を考えます。しかし、親のそうした考えに反して、子どもは活動を続けることを強く望むかもしれません。結果は悪くても、仲間たちとの一緒の行動や生活が、その子の生き甲斐となり、継続したいという理由につながっているのかもしれません。

だから、「結果が良くない」だけで継続を断つ理由にはならないのです。スポーツ競技は、ある種の競技を除いて、その多くは勝ちか負けかの世界です。その構成は、頂点が下にある逆三角形ではありません。頂点に立つ者はごくわずかなのです。

ですから、すべて「結果が良くない」という理由で方向転換を考えるなら、たった一握りの者だけが残るという状態になってしまうでしょう。塾に通うこともクラブ活動をする場合も、単に「結果の良し悪し」だけに意味があるわけではないのです。

大げさですが、学校の教育活動の中では得られない、コミュニケーション能力や努力をすることの大切さをを培う場でもあるのです。

 「切り捨て」という言葉は、あまり良い意味では使われませんから、言葉を変えることにしましょう。

「方向転換」はどうでしょうか。「方向転換」をする子どもたちは少なくありません。その動機の多くは、親子ともども情熱を失なった時です。情熱を失う原因はいろいろです。前にも言いましたが、「結果が良くない」ことが一番かもしれません。親子ともどもと言いましたが、これもまた前述したように、時にはどちらか一方の場合も多くあります。

 スポーツクラブの多くは、高い競技力を目指すことを目的としています。しかし、加入してくる子どもの保護者の立場はさまざまです。クラブを保育園や幼稚園同様に、子どもを預ける場所と考えるようなも親もいます。

そうした保護者の特徴は、保護者同士のコミュニケーションや仕事の分担などについては、あまり積極的ではない傾向があります。そうした状況は、たとえ、子どもがやる気を持っていたとしていても、その保護者にとっては、あまり居心地が良くない場所でしょうから、親の立場だけでの、一方的な「方向転換」をさせることにつながる場合が多いのです。

 その⑥ 父親の立場、母親の立場について

 子どもの競技力が高くなればなるほど、その保護者の状況は変わってくるものです。さほどの目的や目標を持たずに加入させた我が子が、予想以上の活躍をするようにでもなれば、今までの消極的な立場から、大きく変化して、積極的にリーダーシップをとるようになったりするのです。

大げさですが、我が子を見る目の色も変わってきます。我が子に対する自信や欲が出てきた結果なのかもしれません。

しかし、それが過剰な反応となって現れることについては、注意しなければなりません。

 さて、話の方向がずれてしまいましたので、元に戻すことにします。スポーツをする子の親の望ましい態度について述べてみましょう。あくまで私見ですから、気に触るようなことがあればお許し下さい。

 ❶高い位置にいる子の親の立場について

 我が子が優秀な成績を残すことは、親の誇りです。しかし、その場、その場で、喜びを爆発させたり、感情をむき出しにするような応援はやめるべきです。外側から見ると、決して良識ある親には見えません。喜びや怒りの感情は内に秘めておくことが大切なのです。それが分別をわきまえた親であると思います。

 西洋では騎士道、日本には武士道といった精神的規範が存在しました。スポーツはそうしたものを基本として発展してきたのです。しかし、勝利至上主義に押されて、そうした精神的基盤が失なわれつつあります。

物事を自己中心的に考えるのではなく、他人に対する気配りの精神が必要なのは言うまでもありません。それは、スポーツをする上では、技術力以上に大切なことなのです。親には常にそうした事を意識する立場に立って我が子を見守ってほしいものです。

 ❷試合を終えた子に対する母親と父親の対応について

 (母親)

 勝った場合も負けた場合も最高の笑みを贈ろう

 (父親)

 勝った場合も負けた場合も、静かに頷こう

 前にも述べましたが、母親も父親の立場も我が子の勝敗に一喜一憂するのは当然です。しかし、喜びや落胆の感情は内に秘めておくことも大切であることを述べました。母親が悔し涙を流しても、父親が怒りの恫喝をしても、結果は戻って来ないのです。母親の涙の意味や父親の恫喝の意味を子どもは十分に承知の上で目の前に立っているのです。

ですから、感情むき出しの涙や恫喝よりも、冷静に向き合うことの方が、ずっと子どもの心に影響を与えるはずです。親の冷静な対応こそが、我が子をさらに成長させるための大切な要素なのです。

 ⑦最後に自分の苦い経験を話しましょう。

 すでに中学生になった子についてです。その子は非常に寡黙な子でしたが、技術的な成長も早く、二年ほどの活動で、県の上位に位置するようになりました。

 最後のダブルス大会のことでしたが、勝てば決勝戦。十分に対応できる相手でしたが、1ゲームはその子のミスが多く落としてしまいました。

今思うと、その時の自分の対応は全く後悔の言葉以外にありません。

頭ごなしにその子のミスを責め立てました。もちろん、その意図はその子の気持ちをふるい立てようとしたのですが、今振り返ると、自分の苛立ちの感情をそのまま、その子にぶつけたに過ぎなかったのです。

その時の自分に、もっと冷静で悠々と構える度胸があったなら、結果は大きく変わっていたかもしれません。

時には、怒りの感情をそのままぶつけることも必要です。しかし、感情任せではなく、冷静に怒りを演じて見せることが必要なのです。改めて負の感情をそのままぶつけることのマイナス面をしみじみ思い知る経験となりました。

 その子は、そのまま中学でも活動を継続すれば、さらなる活躍は当然と思われたのですが、中学に入学すると同時に別のクラブに移ってしまいました。

もしかしたら、あの時の自分の感情に任せた一言が、その子の情熱を奪い取り、その子の方向転換ヘの契機を作ってしまったのかもしれません。