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パニック

 3月になりました。例年であれば、卒業式の時期ですが、今年は多くの学校が、中止や変則な卒業式を実施することになりました。

 龍ケ崎市内の学校も明日から休校となります。新型コロナウイルスの流行に歯止めをかけようとする国の方策を受けたものですが、いろいろな問題を抱えての休校です。

 両親が勤めの場合、休み中の子どもをどうするのか。大企業等の場合は、テレワークなどで対応するなど、比較的対応しやすいのでしょうが、中小企業などについては、なかなかそうも行かないのが現実です。

学童保育ルームなどで対応することを国や自治体は期待しているようですが、ニュースなどでは、すし詰め状態の現場を映し出す状況を見ると、更なる危険さえ感じてしまいます。

また、子どもたちにとっては、なかなか家の中でじっとしているというのは、堪え難い状況かもしれません。

韓国も同じような状況で、子どもたちは、塾で学習したり、高校生などはCAFEで学習するといった状況のようです。

 中国のような政治形態であれば、種々の方策の決定を強引に推し進めることは簡単なのかもしれませんが、民主的?な我が国のような政治形態にあっては、中途半端な方策でしかないのかもしれません。

休校も強制ではなく、自治体任せですから、実施しない自治体も存在するわけです。家庭にいる子どもの拘束力も無いに等しい状況ですから、休校措置をとったからといって、必ずしもそれで万全ではないわけです。

国はこうした曖昧な問題については、民主主義?をその理由にするでしょうが、実態は国の主導力のなさを表しているように思えてなりません。問題が起これば、直接責任は自治体であり、自らの責任ではないというような責任逃れの施策のように思われてなりません。

 オイルショックの時もそうでしたが、今回もマスクやトイレットペーパーの買占めの問題などについては、当然起こるべくして起こったわけですが、その対応力の甘さも疑ってしまいます。

我々の頼みの綱である医療機関にまでそうした状況が広がっているという状況に国はどう対応するのでしょうか。政治家の口先だけの答弁はうんざりです。

 混乱に乗じた不正などに対しては、厳しく罰することの必要性を国民の多くが感じていると思いますが、これまた対応の甘さに呆れてしまいます。自由という名の下に不正を働く輩を野放しにすることも民主主義だという感覚は、厳しく糾弾されるべきです。厳しくすることは、非民主的?だと考えるような考えを生み出してしまったことも戦後社会の間違った歩みであったのかもしれません。これは、政治家ばかりの責任ではなく、我々世代の責任でもあるのです。

 ウイルス問題は、重大問題ですが、危機の状況においても脳天気な国民の意識が、これを契機に少しでも変化することを望みたいものです。