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ジレンマ

 スポーツ指導者の多くは、すべての選手を成功に導くことを目指しますが、それは現実には不可能と言ってもよいでしょう。

成功して頂点を極める者は氷山の一角で、その構成はピラミッドのようなものです頂点を極めた者の下には頂点を極めることなく取り残され、挫折感を味わい心に深い傷を負った無数の敗者たちの存在があります。

指導者の多くは、「どんな状況においても勝者があれば敗者が存在する。それは必然であり、致し方のないこと」「彼や彼女には、その適性や素質がなかっただけ」ということをその理由とします。

 現在のジュニアのクラブ活動においても、途中で方向転換する者は少なくはありません。時には自己の能力を察知し、敗北感を味わった結果であったり、単に保護者の都合であったりもします。

しかし、去っていくものに対して、引き止めはできるが単に余暇の有効利用としか考えなかった保護者に対しては、ずっとそうした状態を引きずることを考えたなら、方向変換は、もしかしたら正解なのかもしれないのです。

 学習においてもそうですが、生まれながらの天才はいないでしょう。より多くの学習の時間を確保し、内なる能力をより多くき出した結果なのです。スポーツもまた同様、多くの時間を費やし、内に秘められた身体的能力をより多く引き出すことが重要なのです。競技としてのスポーツを目指すのならば、それは当然であり、それが不可能なら、方向転換は正しいといっても間違いではないでしょう。

 ところで、スポーツ(sport)の本来の意味は、(以下はwikipediaから抜粋)『日々の生活から離れること、すなわち、気晴らし、休養をする、楽しむ、遊ぶを意味し、その意味は現在も保持されているが、本来は、特権階級の狐狩り等の狩猟や競馬、弁論、演劇や合奏や競演、カードゲームなど多岐にわたっていたものが、十九世紀ごろからは、運動競技による人格形成論が台頭、貴族階級から解放された労働者階級によるスポーツの大衆化が進み、近代になると統括組織(競技連盟など)によって整備されたルールに則って運営され、娯楽性よりも記録の更新をを第一に意味するようになった。

二十世紀末ごろから、エンジンのついた乗り物で競技することも「モータースポーツ」などと呼ぶことも行われるようになった。また、最近、頭脳を使うにすぎないことまで「マインドスポーツ」などと呼ぶ呼ぶ人も出てくるようになった。2000年代に入ってから、コンピュータゲームを複数のプレーヤーで対戦することを「eスポーツ」と呼び始めた。』

 スポーツの意味する内容も時代とともに変化していることも確かですが、まだまだ一般的には、身体的能力を駆使して、対する相手と競うことで勝敗を決定するというのが中心でしょう。

もちろん、本来の気晴らしや楽しむことを否定するものではありませんが、多くのジュニアのクラブは、こうした競技志向のスポーツを目指していることが多いのも確かです。

 競うからには、本来の気晴らしや遊ぶといった要素を少しでも排除し、スパルタ的な訓練を施す必要ですが、時代は、「話せば分かる」という方向に完全にシフトしていることも確かです。

 『人間と動物は「言語」で通じ合うことは出来ない。「言語」は非常に便利なものであることは確かであるが、しかし、人間同士であっても話せば全てが解決するわけではない。動物と人間には、共通な言語は存在しない。しかし、ともにそれぞれに必要な「感情」を有する。しかし、動物のそれは、ヒトの簡易版というわけはない。ヒトと動物の「感情」の違いは、動物はまだ起きていない事象を予想し、過剰な不安に振り回されることはないが、ヒトは、高度な想像力や記憶力が、過度な心配や危機感という副産物を生み出し、絡まった感情のコントロールが出来ず、負の感情に苦しみがち』(茨城新聞京大准教授・黒島妃香さんの記事から)

 我がクラブにも、試合となると単なる闘争心の表出とは言えないほどの負の感情をむき出しにして、自己をコントロールすることができなくなってしまう者がいます。しかし、「落ち着いて」「冷静になれ」と言葉を投げかけることは出来ても、それで解決というわけにはいきません。しかし、これもまたヒトたる所以と考えれば当然なことなのかもしれません。

 閑話休題。スポーツの指導において、それこそ前時代的な鉄拳制裁をもってすれば、それなりの効果をあげることもあるでしょうが、「話せば分かる」時代においては、なかなかそうはいきません。しかし、「話せば分かる」が完全なものだともは言いきれないのです。しかし、「話す」ことは、完全だと考えなければならない時代でもあるのです。

 前述したような自己の感情をコントロール出来ない子どもたちには、言葉による解決のためのヒントを与えることはできても完全ではありません。感情の乱れをコントロールすることは、ジュニアスポーツにおいては、技術指導以上に大切な要素になっていることも確かです。こうした精神面の指導も心がけなければならない指導者の多くはそんなジレンマのはざまに身を置き、悶々とする日々を過ごしているのではないでしょうか。