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 今日は、4月の12日です。入学式も終わり、いよいよ新学期の始まりです。クラブの子どもたちは、春休みの浮かれた気分を払拭して、学習に取り組まなければなりません。

 自分はといえば、再び暇な時間が増えて、時間をいかに過ごすかに悩む日々に逆戻りです。

 そんなこんなで、今週の火曜日には、日光まで出かけてみました。当日の天候は良く、それ以降はあまり良くない天気予報も出ていましたから、急に思い立って出かけたのです。

 今年は、三月中旬までは暖かな日が続き、予想では例年になく早い桜の開花が予想されたのですが、見事にその予想は外れ、一週間以上も遅れた開花となってしまいました。

クラブが借用している高校の入学式は毎年11日頃で、いつもは、葉桜の状態が当たり前でしたが、今年は満開の状態の中での入学式になりました。

 日光周辺も染井吉野はもちろんですが、とりわけ枝垂れ桜が多いようです、普通ならば、枝垂れ桜の開花の方が早いのはずなのですが、今年は全てが一緒くたに満開を迎えたような状態でした。

天気も良かったですから、中禅寺湖まで足をのばしたのですが、中禅寺湖付近は、前日降った雪も残り、寒々とした冬の風景で、観光客もまばらの状態でした。翌日のニュースによると、翌日の奥日光は、この時期には珍しい20cmもの積雪を記録したようです。

 話は変わりますが、人間の記憶の曖昧さですが、自分自身も10年前のことはもちろんですが、昨年の記憶さえもままならなくなってきました。この日光行きの記憶も、果たしていつまで、はっきりとした記憶として残っているか、多少の心配があります。

しかし、自己弁護をするわけではありませんが、必ずしもこうしたことを老化現象という理由だけでは片付けることできないように思います。このブログもそうですが、日記などに記録しておいたものをキッカケににして、その時の記憶を辿ることはできますが、全くそうしたものに頼ることなく、記憶を維持できるかは、非常に難しい状態になっていることも確かです。

 心理学において、ヘルマン・エビングハウスの「忘却曲線」から言えば、誰にも記憶の「忘却」は起こりうるといわれてますから、記憶を失うこと、「忘却」は、決して老化現象だけがその原因とは言えないでしょう。

もちろん、年齢相応に脳細胞の死滅の速度は速まっているでしょうから、若者に比べれば、とりわけその曲線も急激なものかも知れません。

 パソコン同様に人間の脳細胞にも、記憶容量の限界はあるでしょうから、「忘却」、いわば、記憶を消去することは、新たな記憶のために必要な脳細胞の容量確保としての必要な作用なのかもしれません。

遠い未来、「忘却」をなくすためのチップを脳細胞に埋め込むこともできるようになるかも知れません。

もちろん、「忘却」することは、不都合もあるでしょうが、反面、好都合な面もあるでしょう。こうした両面を持っているからこそ、人間の存在理由だと考えるのは、少し大げさでしょうか。

 暇な日々、そんな取るに足らないことに思いを巡らしながら、過去の記憶を辿る旅をしたいものです