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幻冬の門

 シルバー世代の生き方について、世間の多くの人は、「コミュニティに積極的に参加して仲間を作り、人生を楽しむことが大切」などと圧力をかけたり、時には、仲間が大勢いることを自慢したりするシルバー世代もいます。そうではない者に対しては、『寂しいでしょう』などと言ったりする。

これは、立ち場の違う者の一方的な論理であって、そうでない者にとっては、余計なお節介でもあるのだ」と著者は述べています。

 『幻冬の門』は、五木氏の考える人生の終盤の生き方を述べたものであり、彼の持つ「死生観」を述べたものです  古い中国の思想では、人生区分を、「青春」「朱夏」「白秋」「幻冬」に分け、4番目の区分が「幻冬」期だそうです。著者は、この「幻冬」期を75歳ぐらいと想定していますが、そいう考え方からすれば、あと数年で自分もそうした人生区分に入るわけです。

 本書では、元気に老いるための生き方として、「同居自立」「非相続」「再学問」「妄想」「趣味としての養生」「楽しみとしての宗教」「単独死」という、7つのすすめを述べています。

 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。・・・」は、『平家物語』の書き出しにもあるように、生あるものには、「死」は、必然なのです。

 今盛んに問題視されている厚労省のデータ処理の不正は論外ですが、データ的に今や日本人の平均寿命は驚くほど高くなりました。数多くの戦争や医学面などもあったのでしょうが、昭和初期には、日本人の平均寿命は、現在の半分にも満たなかったはずです。

今や、日本人の多くが、100歳を過ぎても死ないことが当たり前のよう考えているようにも見えます。50歳越えたら人生の終末期と考えていた時代とは、「死」に対する考え方が違ってくるのは当然なのかもしれません。

しかし、100歳まで生きる人の全てが、健康でいられるとは限りません。介護施設のベッドに横たわり、家族からは疎まれ、早い死を望まれるような状態にある者も数少なくありません。ですから、長生きすることが、高齢者全ての願いであるとは限りません。

こうした長生きの時代にあって、自分の「死」をどう考えるかという問題は、高齢化社会を突き進む、私たち日本人の大きな課題かもしれません。

 動物の世界でも、例えば、群れで暮らすライオンなども、死期を迎えると群から離れ,孤独に死を迎えるようです。

どんなに長生きをしたところで、必ず終わりがくるのだということをしっかりと覚悟しなければならないのです。

 本書の帯の裏には、『人間はオギャーと生まれたその日から、死のキャリアとしてこの世に生き、約束された死は必ず実現する。いわば死を抱えながら生きる病人としてこの世に生まれ、再び「大河の一滴」となって海に帰る。肉体としての自分は消えて無くなるけれど、大きな生命の循環の中に、命のエネルギーは溶け込んでいって、そこで永続する。だから、天上天下唯我独尊。犀の角のごとく独り歩めというブッダの言葉のように、孤独死、結構ではないかと思うのです』とあります。

 人それぞれでしょうが、時には自分なりの「幻冬期」の生き方を考えてみたいものです。