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会話

 今年は何十年も続いた教師生活からの解放元年となります。教師にとっては、会話をするというのが生活の中心でしたから、そうした長い間続いた習慣がなくなるという反動は、憂鬱な生活の毎日に繋がりそうで心配です。

 女性と男性では、女子は本能的?なのかどうかはわかりませんが、仲間づくりが上手なようで、退職後も気のおけない友人同士で機会あるごとに集まり、会話を楽しみ、日々の憂さを晴らしているようです。

一方、男はと言うと、退職後も仕事仲間と付き合っていくという形は決して多くはないようです。

また、主体的に話し相手を探し求めるというようなことも不得意な人が多いのではないでしょうか。

もちろん、趣味が合うということで、関係を続けるということはありますが、なかなか女子のように、事あるごとに会話を楽しむという状況にはないように思います。

一人でランニングやウオーキング、コーヒーを飲みながらの読書を楽しむということも考えられますが、会話を楽しむと言うにはほど遠い状況です。

 自分もそうした状況に変わりはないのですが、週4回のジュニアクラブの活動は、そうした憂鬱な生活の毎日を活性化するためにも大切な機会と言えます。

年齢差を考えると、決して対等な関係での会話とは言えないのですが、失われつつある会話の楽しみを見いだす事ができるのは、本当にありがたいことです。

 閑話休題、以前にも述べましたが、今の子どもたちは、自己主張は得意ですが、話を聞くということについては、決して上手とは言えないようです。

以前、話を聞く態度について、禅の教えにある四つの茶碗の話をしました。子どもたちもそうした例えを何度も言いましたから、最近は「今の君はどんな茶碗」と言えば、すぐに対応してくれるようになりました。

 「目は口ほどに物を言う」と言いますが、視線を向けて話を聞くのと、視線を外して聞くのでは、聞く者に対する話し手の印象は変わるものです。視線を向けてくれれば、話し手は「聞いてくれている」という感覚が、おのずと膨れ上がるものです。

ただ、「相手の目を見て話を聞く」という姿勢は、自分が幼かった頃には一般的ではなかったように思います。日本人本来の感覚は、伏せ目がちに話を聞くというのが、謙虚に話を聞く姿勢であるととらえられていたように思いますもちろん、話をする者の話を傾聴するということは当然でしたが、「じっと目を見る」という姿勢は、欧米人たちの話を聞く姿勢の影響を受けた結果のように思われます。

 子どもたちの様子を観察すると、「目を見る」ということばかりではなく、話を聞く姿勢については、いろいろ気になることがあります。

例えば、「話の先読み」や「話の途中の意見」「分かったふり」「うなずき」などです。

「話の先読み」については、話し手の話の流れがわかって、「つまり、✖️✖️ということですよね」というように切返したりするのは、決して聞き上手な人の対応とは言えないでしょう。話し手をイライラさせるだけではないでしょうか。

また、相手の話の内容が、自分の主張の反対意見であったりした場合、その反論をしたくなるものですが、話し手の話が終わってから「私はこう思うのですが」と述べることが大切でしょう。話の途中で意見されると、「話の腰を折る人」という印象を与え、きちんと話が終わってから「私はこう思う」というような人には、「きちんとした意思を持つ人」という印象を与えるはずです。

「分かったふり」については、その場しのぎには有効ですが、のちのちの失敗にもつながる恐れもあります。

また、相手の話に対しての「うなずき」も話し手の気持ちをよくさせ、話のリズムを生み出すためには必要なようです。

しかし、最近の国会中継を見ていると、総理大臣のそばで、総理大臣の一言一句にうなずく大臣の姿がありますが、話をする総理大臣にとっては、ありがたいことなのかもしれませんが、そうした中継を見る者にとっては、いささか不快感さえ覚えてしまうのは、考えすぎでしょうか。

 会話は、話をする者、聞く者の相互の配慮があって、成り立つことを子供たちにも知ってほしいものです。