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歩み

 半世紀にも及ぶバドミントン生活の中で、関わりを持った子どもたち(?)は、数百人にも及びます。そのすべての者の名前と顔を思い出すのも、大変な年齢になりましたが、今でもネット上での関わりを保っている者も結構おります。

 教員生活2度目の赴任先の江戸崎西高は、近くに、中央競馬会のトレイニングセンターができるということで新設された高校ですが、そこで私をバドミントの世界に誘ってくれた島田君、その名は、行き付けの直売所の商品に貼られたラベル上でよく見かけます。卒業後、一度も会ったことはないのですが、偶然の発見でした。彼が誘って、バドミントンを始めた墳本君は、高校からのスタートでしたが、インターハイにも出場しました。同じ阿見中出身で、1年後輩の高田君などの活躍もあり、連続の関東大会出場など、大変いい思いをさせてもらいました。

女子は、全てが初心者でしたが、運動能力が高く、インターハイ出場をかけた県大会の代表決定戦まで上り詰めた篠原さんは、AIRYUの篠原さんの伯母さんであったこと、その代表決定戦の相手は、小学生連盟の役員をなさっている日向さんの妹さんであったことなど、すべては、後で知ったことなのですが、世間の狭さをしみじみ感じさせられます。

 次の赴任先の竜ヶ崎一高では、阿見中の出身の宮本君は、やはり、インターハイ出場を果たすことができましたし、阿見中後輩の飯島君などの入学もあり、多くの県外大会出場の機会を得たことは、西高同様、記憶の中に強くとどまっています。

現在は私立高校教員の宮本君には、ぜひ、バドミントンに対する情熱を再度、燃やしてほしいと願うばかりです。

 私にとっては、次の藤代高校時代が、一番いい生活をさせてもらった時代かと思います。私立学校の特待制度と同等とまではいきませんが、県立高にもそれに近い制度がスタートした頃でした。それは、条件がうまくかみあえさえすれば、情熱ある生徒にとっても、特徴づけをしたい学校側にとっても、ありがたい制度改革だったのです。スポーツと学業という面での両立を願う子どもたちにとって、藤代高校は、その要求に上手くマッチしていたように思います。赴任した当時の生徒には、女子は、檀原(河嶋)さん、成島(小島)さんなどがおります。男子も、当時は、県の有力校であった伊奈東中の塩入君、文随君などもおりました。今や、その子たちが、中学生として活躍しているのは、不思議なものです。

 その後も、阿見中の阿部兄弟や朝日中の中澤兄妹、石下中の浅野君などなど、当時の中学の強豪校の阿見中はもちろんですが、遠く、石岡中や国府中などからの入学があったことは、本当にありがたいことでした。

国立大の工学部に進学した筧田君の卒業後の存在の確認は、偶然にも、前述した、行き付けの直売所でした。島田君同様に、商品の野菜の生産者のラベルからでした。その後の連絡で知ったのですが、会社勤めからの大いなる転進だったようです。彼も浅野君と組んだダブルスでは、大活躍をしてくれました。

現在、私立高校の教員をしている青山君は、茨城インターハイのシングルスベスト8の成績を獲得しました。ぜひ、指導者としては、それ以上の成績を目指してほしいものです。

 ただ、江戸崎西高は、高校そのものがなくなりましたし、藤代高校も、竜ヶ崎一高も、県の高校バドミントン界では、その存在すら危うくなってしまっているのは、本当に残念なことです。現場の覚醒のためにも、熱意ある若き指導者の登場を願いたいものです。

 この40数年という道程は、クラブに通う小学生からすれば、遥かな道のりに思えることでしょうが、通り過ぎてきた自分からすれば、本当に短かなものにしか思われません。

願わくば、この子どもたちが、過去を振り返った時に、幼い時のこのクラブ経験が、自分の人生にとって、有意義な1ページであったと、思えるような、そんな存在にしたいものです。