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学習の必要性

 満開だった桜も散り、葉桜の時期を迎えました。

 学校は、始業式や入学式も終わり、授業も本格化してきましたが、この時期の教室は、不安と期待が入り混じった独特な時期でもあります。

 我がクラブは、新たに低学年の子が数人加わりました。しかし、入部式も歓迎会もありませんから、練習内容に大きな変化はありません。

指導者からすれば、卒業していった子どもたちに対する思いが強い時期でもあります。数年間付き合ってきた子どもたちが、急にいなくなるわけですから、その思いは、親元を離れゆく我が子を見送る保護者と同様かもしれません。一刻も早く、そうした指導者側の感傷的な意識の切り替えも必要な時でもあります。

 クラブは、人数的には、昨年と変化はありませんが、低学年層が増えた結果、そうした子どもたちに対する対応と技術的なレベルアップに力を注がなければならない状態に変わりはありません。野菜栽培のように促成栽培が可能であれば、それほど悩むこともないのでしょうが、限られた条件の中で、果たしてどれほどのレベルアップをはかることができるでしょうか。

 どのクラブの指導者にあっても共通の悩みだとは思うのですが、バドミントンの指導はもちろんですが、学習への取り組みについても、口を酸っぱくして指導しているはずです。バドミントンの優秀選手であって、将来プロとして、生計を立てることができる人は、どのくらいいるでしょう。学問をおろそかにして、スポーツしかしてこなかった子どもが、将来スポーツで成功しなかった場合には、どうするのでしょうか。

日本には、多少の能力を持ったアスリートをも甘やかす環境があります。高校や大学も推薦制度という枠組みの中で、勉強もせずに、楽々と入学できる仕組みは、学歴を得るという面では、特権なのでしょうが、その反面、人間的な成長に絶対的に必要なものを失ってしまっている可能性もあります。

 今日の茨城新聞のコラムに、今は亡き文筆家、池田晶子さんの「16歳の君へ」からの引用で、「勉強する意味とは、人生にとって本当に大事な事は、何なのかということを自分で考えて知ること」とあります。

 新たな年度のスタートにあたり、バドミントンの練習はもちろんですが、人間として生きるための本質を知るための「学習」への取り組みの必要性を子どもたちに植えつけることも、指導者側に与えられた課題ではないでしょうか。