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蛇沼見聞

 龍ケ崎市は、とても観光地とは呼べませんから,有名な見所や食べ所があるわけではありません。

とは言っても、全く何もないというわけでもありません。

 先日、牛久市に隣接する蛇沼公園を訪れる機会がありました。

もちろん、龍ケ崎市のホームページにも載っていますから、その概要については、ぜひ、ホームページをご覧ください。

 蛇沼の周辺は、新興住宅地としての開発が進み、沼の一部は市民公園として整備されましたが、まだその大部分はうっそうとした林に埋もれていて、なかなか沼のほとりまで近づくのも難しい状態です。

その名前が示すように、何かしら怪しげな雰囲気十分な場所でもあるのです。

幼い頃には、マムシがうじゃうじゃ生息しているなどと親達から言われたものでした。

この蛇沼の名前を全国的に有名にしたのは、平成9年に起きた、沼上空での民間の小型機と陸上自衛隊のヘリコプターが空中衝突し、3名の乗務員が死亡した事件でした。

 この蛇沼も、周辺の開発が進んだ結果として、最近では水源が乏しくなってしまったようです。何年か前には、沼の水がすっかり干上がってしまったことがありました。

もともと、湧水と雨水頼みだったのに加えて、開発による影響も大きかったようです。

そういうこともあって、現在は、用水路を整備し、人工的に水を補給して、渇水対策をしているようです。

 そんな沼に付け加えたい話なのですが、大正初期、この蛇沼周辺80町歩の国有地の払い下げをうけて牧場を始めた、竹内網(つな)という人物の話です。

この人物は、もともと、土佐藩士で、自由民権運動にも参加し、明治23年に行われた第1回衆議院議院選挙にも当選した人物だそうです。

板垣退助が岐阜県で暴漢に教われ、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだ時に彼を介抱した人物でもあるそうです。

また、彼の長男は小松製作所の創業者、五男は、内閣総理大臣となった吉田茂なのです。

そんな人物と蛇沼の関係、龍ケ崎に住みながら知らない人は、どれほど多いことでしょう。今流行の町おこしには、いい材料のようですが・・・・

 蛇沼の林の中には、彼の住んでいた住居の一部が、今なお残っているようです。そこまで進み入るには、相当の勇気と装備が必要です。

 さて、何処も町おこしに躍起になるご時世ですが、一体何のための、あるいは、誰のための町おこしなのかと考えてしまう時もあります。しかし、埋もれた歴史だからこそ価値があるのかも知れません。