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続けること

 バドミントンにかかわって、およそ40年になります。途中に5年ほどの空白期間はありましたが、ここまで続けられた理由を問われたら、特別な理由はないとしか答えようがないのです。

 他人は、「好きなのだ」という一言で、その理由付けをするでしょう。もちろん、「好き」は、何事をなすにも、その根底にあるものでしょうから、それも間違いではありませんが、それが全てかというと、そうではありません。

 どんな子どもであっても、最初から素晴らしい技術の持ち主である訳ではありません。

スタート時点においては、成長差などによる運動能力の良し悪しはありますが、その差が一年後、あるいは数年後のバドミントン能力に直結する訳ではありません。その辺のところをコントロールし、手助けすることが出来た時の気分、それは、喜びでもあるでしょうし、楽しさであるのかも知れません。そうしたものを味わうことが出来ること、それも続けることの理由の一つなのかも知れません。

 自分と子どもの立場は、恋愛の対象になってもおかしくなかった40年前、可愛い孫のような存在になった現在、こうした関係は、取り戻すことができないものですが、指導する、指導されるという人間関係は、あまり変わることがありません。

 話はそれますが、時代の流れが急激に変化した結果、子どもたちの内面や活動形態なども大きく変化してしまったようです。

特に、平等主義教育や個人主義教育が行き届いたことは素晴らしいことなのですが、ある部分では、解釈を間違えたまま成長してしまったのではないかと思われるような子どもたちが目立つのは、ゆゆしき問題です。

年齢差、上下関係、男女差など、そうしたことを強調することを避けるような風潮があることも問題です。その結果として、言葉の使い方、話す態度などについて、子どもたちが取り違えた解釈をしているのではと思われることもしばしばです。

また、自己主張が出来るということは、素晴らしいことなのですが、時にはわがままとしか感じられないような主張も多くあるのも現実なのです。

こうした時代の変化が、スポーツの指導形態を大きく変えたことについては、誰もが知るところでしょう。自分自身も多少の戸惑いは感じますが、自分自身を変化させていけば良いことですから、あまり抵抗するつもりはありません。

ただ、流れに棹さす者ばかりではありませんから、時にはニュースとして世間に流れ出ては困るような失態をしでかしてしまう者もいるわけです。「四十歳の抵抗」ではないでしょうが、自分を変化させることが出来ない者たちには、早期の自己変革を期待したいものです。彼らの多くには、煮えたぎり、溢れんばかりの情熱を備えた者が多いのも確かなのです。

 最後に、自分自身がわがままな生活をした結果こそが、40年間続けられた最大の理由なのです。そうした自分を許してくれた、自分を取り巻く全ての者たちに対して、感謝、感謝の気持ちあるのみです。