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子どもたち

 小学生の相手を始めた頃は、こちらの見方も相手は小学生というとらえ方でしたが、どうも最近はそんなとらえ方が出来なくなってしまいました。

小学生というとらえ方というのは、何事にも従順であるという見方でしたが、そんな見方は簡単に裏切られてしまいました。

まず、外見に反するようなボキャブラリーの豊富さに驚かされてしまいます。おそらく、取り巻く環境がそうした彼女たちを作り上げたものであって、決して教育の結果だけであるとは思われません。

ただ、ボキャブラリーの豊富さは、必ずしも知識と比例しているるわけでもないようです。溢れ出る言葉だけが上滑りをしているように思われてなりません。

マスメディアの発達は、地方言葉を共通語化したというメリットもありますが、知識を伴わない無用な言葉を氾濫させたというデメリットもありそうです。

 話がずれてしまいましたが、バドミントンの指導も、あながちそのようなことと無関係ではいられません。指導者に対しては、多言無用というのが昔の部活動における常識であったわけですが、現在においては、そんな常識は通じそうにありません。

ものを自由に言える環境であることは確かなのですが、言いたい放題がまかり通るようであっては困ります。そんなことも指導にあたっては、考えなければならない状況です。

全ての子どもたちがそうであるわけではありませんが、ものを自由に言うこととワガママを混同している場合が多いように感じます。自己主張が通らなければ拗ねてしまうという短絡的な状況は考えさせられる問題です。教育現場においても、そうしたことを強く指導しないし、指導できない現状はまさしく憂慮すべきことでしょう。