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茨城バドミントンの指導者たち

 ひょんなことからバドミントンに手を染めたのは茨城国体が間近に迫った昭和48年、着任した高校に阿見中でバドミントンを経験した生徒が入学したのが契機でした。そのころの茨城県内の高校生男子チームは10校にも満たないほどでした。

この茨城国体を境にして、国体教員チームの一員の佐藤先生(石岡一高)や大川先生(高萩工業)、そして関本(明野)、志子田先生(谷田部)そしてまとめ役の松下さん(県庁)たちが茨城ジュニアの基礎を築いたといってよいでしょう。

 石岡一高は、常総学院が登場するまで、茨城のバドミントンの中心高校として君臨しました。同じ時代、鉾田二高の緒方先生、下館二高の篠崎和子先生など、情熱を持った30代の若い指導者たちも数多く登場してきました。そして彼らをバックアップしてくれた茗溪学園の校長であり、教職員バドミントン連盟の中心であった龍井先生や筑波大学の阿部先生の存在も忘れることは出来ません。

 中学では阿見の田村さんが阿見中の基礎を着実に固めつつありました。皆さんご存知の小島先生は、明野中学、常総学院、そしてつくば国際大学と渡り歩きましたが、常総学院時代には全国の有能な選手たちを集め、長くバドミントンの常総学院の名をほしいままにしました。アジア大会のチャンピオンの米倉選手を育て上げたことでも知られています。しかし、最近はあまり表舞台に登場しなくなったのは残念です。もう一花咲かせて欲しいと思うのは私ばかりではないでしょう。

 その少し前、伊奈中の井上先生は、茗溪学園に進み、茨城県バドミントンの先駆けとなった高校総体個人戦3位になった永須実香選手を育てました。

その後、伊奈東中の国井先生も常総学院に進み活躍した成島瑞穂選手や現在は豊ジュニアで指導している前田(旧姓加藤)さんたちを送り出しています。

爾来30数年、彼らの多くは現役をリタイア、悠々自適の生活の中にありますが、今なお、バドミントンの情熱が覚めやらず、老骨に鞭打つ者も少なくありません。しかし、指導者の高齢化とともに沈下しつつある茨城のバドミントンの救世主となるべき若き指導者たちの登場を期待したいものです。